コラムコラム

第24回 私の大切な恩師

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2008年2月25日月曜日 アンティ、ジュノア・ケアヴェ 89歳 永眠。
2008年4月10日木曜日 アンティ、ノナ・ビーマー  84歳 永眠。
2008年5月14日水曜日 クムフラ、ジョン・レイク  74歳 永眠。
私のクム、ナラニ・ケアレとコンペティションに出場したクプナさんたち。 今年は本当に大切な人とのお別れが相次ぎました。
私のクム、ナラニ・ケアレとコンペティションに出場したクプナさんたち。 アンティ、ジュノアがいつも歌っていたマリオット・ホテルのプールサイドは、私がフラを踊る唯一の場所でした。アンティ、ジェノアが亡くなった後は、お孫さんのマンディさん(素敵なフラ・スタイルNo.10 、16ページに登場)が引き継いだと聞き、お悔やみと、マンディのパフォーマンス第1回目のお祝いということで、レイを持って行ってきました。この日は次の世代にバトンが渡された瞬間でもあります。時代の流れを感じただけでなく、居合わせたことに対しても光栄に思いました。

アンティ、ジェノアはいろいろな所で歌ってくれて、躍らせてくれました。大げさなようですが、私のフラ・スタイルはアンティなくして語れません。踊って! といわれたら、喜んで踊れるような私に育ててくれました。私のフラを育ててくれた恩人です。
私のクム、ナラニ・ケアレとコンペティションに出場したクプナさんたち。
私のクム、ナラニ・ケアレとコンペティションに出場したクプナさんたち。アンティ、ノナは、2007年11月に開催された「ワイキキ・フラ・カンファレンス」のセミナー(素敵なフラ・スタイルNo.21 、44ページ)で、「尊敬すべきクプナのお話、アンクルジョージそして、ジョーン・リンジー」の講演の時にお目にかかりました。その時の教えに、「フラは、アロハ、アロハは、一つになること。ものごとを分かち合って、愛を与え続けること」というのがありました。私はこの教えをフラに生かしたいと思います。
ちなみに、アンティ、ノナは「ホノルル・シティ・ライト」という有名な曲の作者であるケオラ・ビーマーさんのお母様です。
私のクム、ナラニ・ケアレとコンペティションに出場したクプナさんたち。
私のクム、ナラニ・ケアレとコンペティションに出場したクプナさんたち。フラの諸先生方は優れた方々ばかりです。しかし、私の恩師といえば、クムフラ、ジョン・レイク(素敵なフラ・スタイルNo.18)。彼が逝ってしまったのはとても悲しくて仕方がありません。私にとってはハワイの父のような存在でした。
クムフラ、ジョンとの出会いは2000年のことです。あるメディアからカフナの取材のコーディネートを依頼された時、たくさんのハワイアンから意見をいただきましたが、クム、ジョンが適任であるという声が圧倒的でした。
2001念のえひめ丸の事故の時には、私は各局の報道のお手伝いをさせていただき、海軍とのやり取りで困難をきたしていた間、クムはハワイを代表してお悔やみをしたいと船を出し、海で亡くなられた9人を鳩に例えたチャントを唱えて見送りました。
また、ワールド・インビテーション・フラ・フェスティバルでは、チャントのジャッチもされていました。
2008年5月31日、クムがディレクターを務めていたシャミナード校内の教会で行われたキリスト教とハワイアン・スタイルの両方の葬儀に参列した時、そんなクムにまつわる数々の思い出が走馬灯のように駆け巡りました。入った瞬間から涙が止まらず、そこで何時間も過ごしてしまいました。
一般にハワイアンのお葬式は、音楽あり笑いあいで、悲壮な雰囲気ではありません。葬儀が終わったら食べて話して、生前のクムを惜しみあいました。
5年間という長きに渡りガンと闘い、とうとう天に召されてしまいましたが、彼の教えは永遠です。
クムが残してくれた言葉でいちばん好きなのは、「アロハを知り、アロハを生きる」です。フラを踊るに当たって一番大切なことは、毎日の生活の中で、どれだけ自分が笑顔で、受け入れ、感謝し、分かち合えたか? に尽きると思います。その精神=笑顔が本物か? が、踊りに反映してくるのだと思います。
そして改めて、フラの深さに触れることができました。