「カホオラヴェ」は「潮の流れで運ぶ」という意味だ。8つのハワイの島のなかでもっとも面積は狭く、今では誰も住んでいない。
しかし以前のカホオラヴェには、豊かなネイティヴ・ハワイアンの文化があった。ここは海の神であるカナロアに捧げられ、カフナ(僧侶)たちが学んだ聖なる島だった。この小さな島には500を超える貴重な遺跡があることが確認されている。ハワイ諸島の中でも最大規模のヘイアウ(神殿)の跡地があり、沿岸では漁業が、内陸では農業が栄えたことも考古学調査から明らかになっている。
18世紀に入り欧米人がハワイに来るようになると、カホオラヴェにヤギ、牛、羊が持ち込まれた。ハワイに寄港する欧米の船の食糧になると考えられたのだ。これらの動物は従来の島の自然環境に著しい変化をもたらした。カホオラヴェ固有の植物の多くが姿を消し、土壌の浸食がすすんだ。ハワイ王朝は牧場を設けるなどして、急増する動物の数をコントロールしようとしたが、あまり成功しなかった。19世紀末には羊の数だけでも1万5千頭を超えていたと言われている。
1941年に日本軍が真珠湾を攻撃すると、再びカホオラヴェの姿は大きく変化することになった。アメリカ軍が島全体を接収し、住人を強制退去させて、一大軍事演習場としたのだ。その後何十年にもわたり、島は毎日のように無数の砲弾を浴びることになる。
ネイティヴ・ハワイアンの多くは、聖なる地カホオラヴェの変りはてた姿に心を痛めた。そして、1970年代になると、ネイティヴ・ハワイアンの若手活動家が無断でカホオラヴェ島に上陸し、演習を阻止しようと活動を始めた。このようなゲリラ的戦略には大きな危険も伴った。指導者のひとりで、優れたハワイアン・ミュージシャンとしても知られたジョージ・ヘルムは、1977年にカホオラヴェ島に上陸後、マウイ島に泳いで戻ろうとして溺死した。
このような悲劇にもかかわらず、運動は粘り強く続けられた。1990年、ついにハワイアンは演習を中止させることに成功した。1994年にはカホオラヴェの管理権が海軍からハワイ州へと移行した。海軍が砲弾の除去作業が続けるいっぽうで、ハワイの人びとは今後のカホオラヴェのあるべき姿を論じた。その結果、この島はネイティヴ・ハワイアンの伝統文化を守り、実践するための場として使用することが決められた。植生もできる限り以前の姿に戻し、都市化が進むオアフ島などではみられないハワイ固有の植物を保護する土地として用いられることになった。
カホオラヴェが再生されても、観光客が気軽に訪れる観光ホテルやリゾートができる可能性はほとんどない。簡単に訪れることができる島にはならないだろう。しかし、そのような排他主義もハワイの伝統のためには必要であると理解し、カホオラヴェの復活を祈り続けよう。